清志郎の音楽は、高校生の時に知りました。しかしその頃はまだあまり清志郎に興味がなく、テレビ等でチラッと知っていたくらいでした。
その時、僕の同級生がRCサクセションのコピーバンドを結成する事になり、僕はRCサクセションをあまり知らないまま、そのバンドのキーボード担当になりました。
キーボードパートを練習するため、バンド仲間から「RCサクセションAT武道館1981」のカセットテープをダビングさせてもらい何度もRCサクセションを聴いているうちに「なんだこのボーカリストは、スゲー」と清志郎の歌声、ボイスに震え上がりました。その時初めて、清志郎のボイスに憧れました。
それから、清志郎の楽曲を色々聴くようになりました。次に、清志郎の作る曲に憧れました。僕はシャウト系ではなく、清志郎のバラードに特に惹かれました。「スローバラード」「多摩蘭坂」「エンジェル」…
中でも「多摩蘭坂」は、いつか自分も大きな舞台で歌ってみたいという、最高の作品になっていました。
何回も歌を練習して、バンド仲間に「自分がボーカルをとりたい」と直談判しましたが歌唱力のない僕は敢え無く却下されました。
小さい頃から音楽は好きでしたが、どちらかというと器楽をやっていました。器楽をやってきた僕は、歌をとる(ボーカル)タイプではなかったのですが清志郎を知っていくにつれて「バンドやるなら絶対ボーカル。あとは絶対やんない」という気持ちが芽生えました。(清志郎以外の音楽でしたら、もちろん他の楽器もできますが…)
僕がバンドのキーボードをしている時期に地元の文化会館に本物のRCサクセションが来ました。前から6列目で結構前の方のチケットが取れました。その時初めて、清志郎のパフォーマンスを目の当たりにし、清志郎のステージに憧れました。
その日からますます清志郎の音楽に魅了されていきました。「こりゃ、絶対に清志郎の歌を歌えるようになりたい。」とますます思うようになりました。それは別に、大きいステージやバンドじゃなくても良くて、ただ純粋に清志郎のようにかっこよく歌いたいだけでした。
しかし実際は、清志郎の歌は難しく、キーも高く、声も出ず、清志郎のような声はまったく出せませんでした。
でも「上達するにはとにかく練習」と思い、歌の練習は続けていました。特に社会人になって、ストリートをやるようになってからはさらに練習するようになりました。
でも僕はサラリーマンで、音楽活動はなかなか継続してできるものではありませんでした。
ストリートミュージシャンをするよういなったもともとのきっかけは、失恋のショックから立ち直ろうともがいたあげく、清志郎の歌なら思いっきり外でシャウトでき、気がまぎれると思ったのがきっかけです。自由で気ままに歌える場所で歌いたい時に歌っていました。
清志郎が亡くなる以前は、自分の声で清志郎の楽曲を歌っていましたが、亡くなった後は、できるだけ清志郎に近づきたいと思って歌うようになりました。それは、もう今以上清志郎の楽曲が増えることがない、ライブに足を運べない、誰かが清志郎の代わりに清志郎の楽曲を歌ってもそれは清志郎ではないという事から清志郎の声、楽曲、パフォーマンス等を今まで以上に愛おしく感じるようになったからです。
清志郎が亡くなり、清志郎の音楽をしっかり歌いたいと思い、RCサクセションのコピーバンド「ニコニコサクセション」を結成しました。「八甲田丸港フェスタ2009(7月)」は、RCサクセションのコピーバンド「ニコニコサクセション」の初めてのステージでした。
僕はこのステージのために清志郎が実際にスーツを発注していた縫製工場、地元トップテーラーさんにピンクのコンポラスーツをオーダーメイドで作ってもらいました。清志郎が亡くなった年でもあり、かなり気合の入ったステージになりました。
この年、本当は色々な方々から出演依頼を受けましたが、1曲1曲をしっかり演奏したいと思い、ライブの回数を限定しました。
2011年、東日本大震災があってからは、チャリティーでの演奏に力を入れました。その頃はコンパクトに演奏できるファミリーバンドでの出演を主としました。
清志郎の歌は「ラブ&ピース」だと思うので、オイラもその気持ちを持ってステージに立っています。